足が痛い時に走ったらあかんわぁ~。
右足の甲の右側面が少し痛かったのだが、まあ、ええやろ、と思って走ったら、かなり痛くなってしまった。
というわけで、歩くのも痛い。
前に25km走ったのが、予想以上に堪えているようだ。
自分がヤワ過ぎる。
最近、図書館で、森博嗣氏の「工学部・水柿助教授の日常」という本を借りて読んだ。
「これは小説だ」、「フィクションだ」、「ミステリーだ」と何度も書かれているのだが、いつまで読んでもミステリーが始まらない。フィクションだと言いつつ、作者の実話っぽい。結局、最後まで読んでもミステリーは始まらず、タイトル通り、作者の「日常」を綴った内容だった。まあ、そういう企画なのだが。
でも、「なんだ、だまされたよぉ」「読まなければよかった」という本ではなく、それなりに面白い内容だった。だから最後まで読んだわけだが。
で、水柿助教授、まあ、森博嗣氏本人なわけだが、三重県のM大学工学部に助手として採用され、後に愛知県のN大学に移ったということだ。まあ、MとかNとかイニシャルにしても仕方ないが・・・。
M大学の情景が詳しく書かれていて、懐かしさをおぼえた。津市がいかに何も無いところか、特徴がないところか、ということが書かれていて納得。
「主婦の店」とか出てくるし。
で、この本の中で、現代国語不要論的なことが書かれていて、自分もそう思っていたので、共感をおぼえた。
数学とか理科とか社会などは学問といえるが、現代国語は、結局なんのためのものかといえば、文学作品なりを鑑賞したり、文章を書いたりする能力をつけるためのものだろう。であれば、美術と同じようなものだ。美術は、鑑賞の仕方を学んだり、テクニック的なことを学んだりするが、現代国語でそういうことを学んだか?多少は学んだだろうが、現代国語のテストの設問は、しょうもない内容が多すぎるように思う。作品の感じ方なんて人それぞれなので、テストには向いていない。結局、当たり障りの無いような、当たり前のようなところしか設問にならないので、しょうもない設問になってしまう。
全く興味のない、あるいは自分と全く意見の合わない内容の文章がテストに出ることを想像してみたら分かるだろう。なぜ、こんな文章を読まなければならないのか、と思いながらテストを解かなければならないことを想像してみたら分かるだろう。
文学作品は、自分で選んで読むべきもの。
この教科自体が要らないように思う。
森博嗣氏は試験のことを忘れて設問の作品に読みふけってしまうことがあるらしい。